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英雄不在の時代 III

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『ペスト』にて、著者であるカミュはこのような発言をしています。

「この作品に英雄はいない」

これはどのような意味を持っているでしょうか?その取っ掛かりとなる人物が、二人います。
 

まずはリウーです。
言わずと知れた『ペスト』の主人公ですね。オランの医師であり、ペスト大流行の予兆を察知し、腰の引けた行政たちを叱り飛ばし、自ら保健隊を結成。英雄のタルーを亡くしましたが、最初から最後まで一貫して人々を救い続けた人物です。

もう一人がグランです。

 地位もなく、経済力もなく、ましてやヒーロー的な要素などまったく見当たらないこの男には、「善意と熱意」しかありませんでした。しかも、グランは他のメンバーよりも年を取っています。体力にもそれほど自信はありません。そんな彼は、患者の所在、往診の記録、患者や死者の運搬の指示、消毒されていな家や納屋、倉庫の数など……。状況の整理とデータ管理を、グランが担いました。こうして、リウーやタルー以上に、グランは保健隊になくてはならない存在となっていったのです。リウーが改めて感謝すると、グランはこのように返答しています。
 

「そんな、わたしの仕事が一番大変ってわけでもないでしょう。それに、ペストがいるんですから、ペストからわたしたちを守らなきゃなりません。すべきことは、これほどはっきりしているんです」

 さて、カミュは「もしこの小説に英雄がいるなら」という条件をつけて、グランを指名しています。なぜカミュは、リウーではなくグランを指名したのでしょうか?

 

リウーの英雄的要素は、どの読者も納得できるほど、明白なものです。実績も発言も性格も、なんなら容姿も全て、英雄の称号にふさわしい人物です。ではグランはどうでしょう?年齢、役割、性格、なんなら容姿も全て、およそ英雄とは言い難い人物です。

 実は、このグラン指名に、カミュの哲学が現れています。

 カミュは、わざわざグランを指名することで、「英雄の不在」を主張しているのです。もし、リウーを英雄として登場させていたら、オランの人々は、英雄を待ち望むことでしょう。それは、オランだけでなく、まさに現在の私たちにも通用しないでしょうか。英雄の不在は、「英雄が現れない」ことを悲観しているのでは全くありません。むしろ、ヒロイズムに象徴されるような英雄待望論を、厳しく批判しているのです。

続きはIVで。
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