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コロナ禍を経た未来とは?(01)

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コロナ禍の渦中、『60分でわかるカミュのペスト』を上梓した。タイミングが会って、『読書感想文書き方ドリル』も同時期に出版される。

生来、「仕事=稼ぐ」という思考が苦手。だから四十過ぎても大学に居続けられた。そんな性分のため、結婚し子供を授かるまでは、1日のどこかで、「本を読み、メモをとり、思考に耽る」という時間を確保していた。

相変わらず、経済活動が下手くそなのは変わらない。しかし、おかげさまで、忙しい日々を送っている。二冊の本を出してから、読書会や受験や勉強での相談、個人授業、出版の打ち合わせなどが入り、外に出ない日はない。容易に想像できるだろうが、僕のような性分は、時間をもらえれば、外出せずとも、家の中でのんびりと過ごせる。「本を読み、メモをとり、思考に耽る」だけで、5、6時間はあっという間、「あららもう夕方だ」と、そんな日は毎回、驚かされている。

とはいえ、ここ1ヶ月、そんな日が全くない。全然ない。スケジュール帳が予定で黒くなっている。白くてもいいのに……。なんて気持ちもなくはないが、これもまた、未来の為。そして未来とは、娘のいる未来なのだ。

「娘のいる」というのが僕には不可欠だ。

おかげで、未来の当事者になった。

今回のコロナ禍は、「不条理」というキーワードによって誰もが自らの現在を問い直すことができるだろう。例えば、「仕事の仕方」。「決まった時間に出社することは必要か?」。「会議ってなんなの?」。「出張なんてしなくていいんじゃない?」。さらに展開して「仕事をしなくてはいけないのか?」あるいは、「仕事とは?」等々。あるいは、「既得権益」という共通認識。既得権益にどう関わるか?それは個々のの選択だろう。

このような問題の顕在化は、「不条理」の作用と言える。大事なことは、この不条理の世界に、誰もが当事者として存在しているということだ。

誰もが選択をしなければならない。

しかし、当事者意識というのは難しいもので、僕の場合、「娘がいる」がなかったら、相変わらず対岸の火事のような気持ちでいたかもしれない。「誰かがやってくれるだろう」、と安楽椅子に座ったまま足をぶらぶらさせていたかもしれない。

七月から「てらてつ(お寺で哲学する)」「かまてつ(鎌倉のお寺で哲学する)」では、『ペスト』と『ラ・フォンテーヌ』の寓話を融合させ、楽しく哲学している。

さて『ネズミの会議』という寓話がある。ネズミを殺しまくる化け物猫、ロディラデュスに、ネズミたちはどう立ち向かうか?

この続きは次回に。

『ペスト』を読み解き、ポスト・コロナの人間を学び合う会に参加してみませんか?


未読の方も、熟読済みの方も、対等です。

性別とか、肩書きとか、不要です。

会場は、広尾のお寺、香林院さん。

住職の坐禅指導もあります。l

火曜の夕方、仕事終わりに心と頭をリラックス!

港区三田と鎌倉で、「てらてつ(お寺で哲学)」開いています。
「大竹稽」ホームページから、お問い合せくださいね。
https://kei-ohtake.com/

どなたも、気楽に、遊び心で学び合いましょう。

お申し込みは、大竹稽ホームページまで。