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「迷いをなくそうとしない」から始めませんか? 03

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2020年は忘れがたい年になりました。

今年の漢字は「密」になりましたが、「禍」でよかったんじゃないかな、と考えています。やんわりとごまかさないことこそ、未来を守る誠実さなんじゃないでしょうか。

さて、コロナ禍の中、皆さんにも様々な迷いが生まれたのではないでしょうか?

さて、「迷い」を正しく見る。の続きです。

そもそも「迷う」ための条件がありますよね。

それは、「選べない」という条件です。当たり前ですよね。

では、なせ「選べない」のでしょう?

いくつも選べるのなら、迷いは生まれません。「一つしか選べない」から迷うのです。

何かを捨てないといけない。だから迷うのでしょう。

明らかな違いがある時も、迷いは生まれません。

「月とスッポン」は選択肢にならないのです。背比べしているどんぐりのような選択肢だから、迷わせるのです。

大好きなものがあるときも、迷いは生じません。僕の場合は、甘味。

なにはともあれ、外出先では、「善哉」を探します。

パフェ?いりません。ケーキ?いりません。磯辺餅?いりません。

でも、善哉がどうしてもないときは……迷いますねぇ。

選択肢の要素が複数ある。これもまた迷いの原因です。

単に「A」か「B」か?では、迷いにはなりません。

Aを選ぶとCを得るがDを捨てることになる。Bを選ぶとCを捨てるがDを得る。

たとえば、「どの道を選ぶか?」という選択肢があります。

選択の要素として「所用時間」と「料金」の二つに絞りましょう。ナビもこの二つを基準に、ルートを選んでいますよね?

この場合、所要時間が同じなら料金だけで選択するでしょう(景色や覆面パトなど、他の要素は一切混入しません)。

しかし、道を選ぶのは、「所要時間」と「料金」だけでは済みませんよね。

例えば、景色。

あるいは、事故の可能性。

あるいは、道の好み。曲がりくねった道が好みの人もいますよね。

あるいは、覆面さんたちの出没率。

こうなってくると、選択はもう、勘や気分によるものになりそうですね。

僕は、気分で道を選ぶこと、結構多いです。

さて、ここで迷いについての僕からの一つ目の助言です。

迷ってはいけない、という強迫観念は、あなたの首をしめるものです。

まずは、「迷っている自分」を認めてしまいましょう。

そして、第二の助言です。

「自分の迷いの成分(「選択理由」となるもの)について、思いつくものを挙げてみましょう」

いかがでしょう?

「選択理由」には限りないかもしれません。

一見すると同じに見える迷い。でも、中身は全然違う。

これをたとえるなら、化学で習う混合物の分析のようなものです。

同じ色の溶液でも、中身が違えば、反応が異なります。

反応を段階的に経ていくことで、混合物の成分が特定できるってやつですね。

さて、同じように見える迷いは様々な要素で生まれてくる。

そこで、僕からの三つ目の助言です。

迷いを構成する不純物について考えてみませんか?

不純物とは、自分の手に負えないこと。

ただの不満や愚痴や怒りになっているものなどが挙げられでしょう。あるいは、呪いにも似た気持ちになっているかもしれません。

とはいえ、そんな不純物は、自分ではどうにもならないことなのです。誰しも不満は生まれてしまうものです。そのことはあっさり認めてしまって、しかし、そこに執着しないでおきましょう。

自分の手に負えないことは倉庫にでもしまっておく。

迷いから不純物を取り除きませんか?

でも、何が不純物か分からない、そんな意見もあるでしょう。

明日は、この続きから書きましょうか。
 



鎌倉や東京で哲学教室や作文教室を開いています。
また、思考塾というAI時代を生き抜く子育ての場も設けています。

東京では、港区三田、台東区浅草で開いています。
 

鎌倉でも、てらてつを開いています。略してかまてつ。

会場は、建長寺塔頭の正統院さんです。