「ぼくの(わたしの・あっしの・おいらの・mon・my)運命ってどうだろう?」
「どんな運命が「待ち構えている」のだろう?」
「運命の人!募集中!」
そんな考えをもったこと、ありませんか?1少なからずある。
2ほとんどない。
3まったくない!
4いままさに!
5常に。なんか、怪しい街角アンケートみたいになってしまいましたが…、もちろん、まったく怪しくありません。

てらてつ(お寺での哲学教室)のテーマに「運命」を選んだのも、そのような気持ちが伝わってきたからです。
さて当日。みなさんと対話と模索を初めるや出てきたとっかかりが、こちら。
「運命より、まずは使命じゃない?」
似て非なるこの言葉。もう一つ、宿命がありますが、そちらはさらに後回しにしましょう。順序として、まず「使命」。それから「運命」。最後(死後)に「宿命」。
順序立てしたところで、「運命」と「使命」の違いを参加者のみなさんと考えてみました。キーワードは「シナリオを書いた誰か」。僕たちは、運命なるものに、自分の「シナリオを書いた誰か」を想定しています。この「誰か」をどれほど信頼しているか。それによって、運命は変わるのでしょうね。
この「誰か」が全体不可侵の権威を持っていれば、運命なるもの(シナリオ)はいかにしても変えられるものではありません。しかし、その運命には必ず合理的理由がある。「理由がある」、これによって僕たちは安心もするし、諦めもします。このような「誰か」を求めることは、避けがたい人間の業、って言えるでしょうね。
いっぽう、この「誰か」の信用が低いとき、あるいは、信頼できなくなったとき、運命は変えられるものとなります。

いっぽう、「使命」にはこのような「誰か」は必要ありません。なぜなら、己の使命を見つけるのは己でしかありません。ということは、ですよ。使命なんか見つけられないまま死んでいく人もたくさんいるのです。それでいいんです。賢人は、「使命を見つけなさい!」と説き伏せますが、僕は、「あってもなくてもいいんじゃない?」と思います。
無論、ですよ。無論、使命があったほうがいいんです。でも、「なきゃいけない」ってものでもないのでしょう。むしろ、「なきゃいけないんだ!」と使命なんてものを探しに出かけてしまうほうが、厄介です。「あ!これだったんだ!」と後から気付けばいいんです。

続きは次回へ
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