あの人、わたしの運命の人。
そうした予感が的中する。そんな経験ありますか?
ぼくにはまったくありません。僕の感性が雑だからかもしれませんが、まあとにかく未経験なのです。
無論、ぼくがモテ男なるものとは縁遠かったことも、一因でしょうね。
運命は、「運命の人」や「運命的出会い」のように、しばしば良い表現にセットされますが、運命自体に良い悪いはありません。
それをよく表す言葉が、「運命共同体」。
乗り越えるべきことが目前にあり、共に闘う同志がいる。それが運命共同体なのでしょう。状況自体に善悪はなく、なすべきことに意味があるのです。
そして、いま、まさにぼくたちは新型ウィルスを迎えた「運命共同体」なのではないでしょうか。
だれも、このような事態を望んでいなかったはずです。「運命の人」と同じ意味合いで「運命の事態」などと、啖呵を切っても、事態は収束しません。
運命とは、共にする人がいてようやく成立するものです。「運命の人」も、パートナーがいてようやく運命になる。だから運命の人探しは、噴飯物なのです。運命共同体も、同志がいてようやく成立するのです。孤立無援では運命にはなりません。
さて、新型ウィルスという不可測の事態に対し、運命を共にする同志はどれほどいるでしょうか?
政治的メッセージに期待すべきではありません。予測不可能な事態において、政治は錯綜するものなのです。大事と小事に優劣をつけることは、政治にはできません。
カミュの『ペスト』のベルナール・リウーとジャン・タルーは、自ら動くことで、ペストと闘ったのです。それも、自分のためではなく、運命共同体のために。
ぼくは、ここで、「運命」という言葉を使います。なぜなら、ぼくは一人でこの事態に向き合えるほど強くないからです。
買占めをしない。不要な外出は控える。不要なマスク装着はしない、等々。
これらすべて、自分のためではなく、運命という冠を共にする仲間のためにすることです。
未来のためにすることです。
他人がすることを待っていては、同志にはなりませんよね。でも、どこに同志がいるかわからないじゃないですか?リウーとタルーのような二人三脚ができればいいのですが、この事態は世界規模。もしかしたら、フランスに同志がいるのかもしれない…。フェイスブックでつながっているあなたかもしれない。
でも、まだ「かもしれない」なのです。
そんなとき、自ら奮い立たせるものとして「運命」という言葉が必要なのでしょう。この事態を「運命」として意味づけ、「運命」に誓い、未来を守る。
ぼくのような弱い人間には「運命」という意味づけが必要なのです。
だから、運命とは一つのシナリオとして信じられるものではなく、意味づけていく言葉なのです。
運命線だって、「そうなるよ」と書き込まれているものではなく、自らの行動によって変わっていくそうじゃないですか。
新型ウィルスの先の世界のシナリオはまだありません。運命など決まっていません。ですが、運命を背負って行こうじゃないですか。
いかがでしょう。
「かもしれない」があなたであると嬉しいですね。
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