みなさん、「使命」というものをどう考えますか?
「自分だけができること!」

こんな使命感もありかと思いますが……、こんな疑問が湧いてきてしまう僕、変かしら?
「自分にだけ?そんなご大層なものじゃなきゃ、使命にはならないの?」
自分にだけにできる何か、ってどんなものでしょう?
たとえば、あなたが大力無双の男だったとしましょう。そのあなたにだけできることって?
あるいは、スーパーコンピューター並の頭脳を与えられた人間?これはすでに限界が見えていますよね。コンピューター並はコンピューターを越えられないのですから。
「自分にだけ」というクライテリアは、この御時世、意味をなさないのです。

では、使命をこのように定義してみてはどうでしょう?
「だれにでもできるかもしれない、でも自分が引き受ける!」、そう思わせること。
てらてつ(お寺での哲学教室)でも、使命の一つとして「子育て」が挙げられました。子育てって特殊能力ですか?世に選ばれた人物だけに許される?のではありませんよね。「やるしかない!」、とこれまでも無数の親が引き受けてきました。これからも、ここだけは変わらないでしょう。シッターさんたちや、何人も子供を育てたことがあるお母さんたちと比べて、自分は確実に下手、失敗もやらかすだろう。でも、この子を育てるのは、自分だ!
合理的に考えれば、経験も知識も豊かな人たちに任せてしまったほうがいいですよね?でも、「自分が引き受ける!」のです。
さて、子育てをアナロジーにすると……
使命とは「だれでもできるかもしれないが、自分が引き受けるしかないもの」と定義できるでしょう。
でも、このような使命はそうなってみないとわからないものなのです。
自分の使命なんてものを探す必要はありません。目の前にある、だれにでもできる仕事を責任もって果たしていく。するときっと、「自分がやるしかない!」を知るのでしょう。

ここから『論語』中、屈指の有名フレーズに辿り着きます。
「四十不惑、五十知命」と孔子は教えています。天が与えた使命を知るのが五十。その前に判断に迷いがなくなるそうですね。なぜ、使命を知るから不惑になるのではないのでしょう?
なぜなら、「だれでもできるかもしれないが、自分が引き受けるしかない」ものだからですね。
そして、それを知ったのが孔先生レベルでも、五十歳!
だから、若者には「自分の使命を見つけたい」とうろうろするのではなく……
「使命?なんすかそれ?」とそ知らぬ体で、与えられた任務に力を尽くしてもらいたいですね。
さて、次回は「運命」について。「運命というシニフィアンス」というタイトルでお贈りします。
港区三田と鎌倉で、「てらてつ(お寺で哲学)」開いています。
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