覚醒、それは迷いから覚めること。

まあ、僕のような凡夫は、いつか覚醒したら、世の中ファンタスティックに見えるんじゃないか、とか、ブレない人生が待っているんじゃないか、って思ってしまいます。
でも、大事なことがあります。覚醒は外からの刺激によってもたらされるものではありません。外からの刺激は、無数にあるきっかけの一つに過ぎません。
実際、目覚ましの音で目が覚めるのは、心地よいものではありません。できるなら、自分のタイミングで目覚めたいものですよね。

セミナージプシーなる言葉、聞いたことはありますか?
僕の周りにも、セミナージプシーさんたちがおります。あの方たちが抱える由々しい問題は、まさにこの、外からの刺激で目覚めようとしていること。でも、その刺激はどんどん強くなるばかり。外からの刺激に頼ることは、本心はむしろ覚醒を拒んでいることを暴いてしまうのです。
覚醒は求めるものではありません。セミナーに参加して、「気づきがありました!」なんて感想を公表するのは、間が抜けているんです。
周りはため息ついているでしょう。「気づきがあったのに変わらないね」って。
その程度の気づきなら、ない方がマシでしょう。
だから……。

「目覚めたい!」なんて妄念は捨ててしまって、ちゃんと目を瞑って寝ていましょう。
つまり、迷いを大事にしましょう。
すぐに答えを出そうとしなくてもいいんです。

ただ、「目を瞑って寝ていましょう」は比喩。睡眠とは違います。大切なことは、現場に居続けること。
そうすれば、目覚めたいと思わなくても、迷いから覚めるタイミングは必ず訪れます。
『ペスト』のランベールは、「見た通りのものを見てしまった以上は、自分はこの街の人間である」、と覚醒しました。
そして、ランベールの覚醒の必要条件は、保険隊に参加し続けたこと。それ無くして、彼は決して覚醒しなかったでしょう。
「迷っている」自分が不安ですか?そんな自分に不満ですか?

まあ、「一切の迷いから解放されることなんてあるのか?」と思ってしまいますが、「迷っている」ことを自覚しているみなさんは、それですでに覚醒への条件を満たしているのです。
自覚とは、見て見ぬ振りをしないこと。自覚し、答えが出ないまま自分を信じ、現場に居続けましょう。
『ペスト』でのランベールの行動を一般化すると、こうなるでしょう。
だから、迷いから逃げなくてもいいんです。

港区三田と鎌倉で、「てらてつ(お寺で哲学)」開いています。
同じく、港区三田と鎌倉で「作文堂(作文教室)」も開いています。

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